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いつも面白い動画ありがとうございます。江戸時代以降の歴史の繋がりが感じられる動画ばかりでとても勉強になります。井伊直弼以後の彦根藩の動きは全然注視していませんでしたし、長期政権となった戦後の市長の話も全く聞いたことがありませんでした。
素晴らしいナレーションお見事でした。人間関係のいろいろが入り組んでいて人に話して聞かせるよになるまで大変です(笑)歴史っていうと世界中でどこの国も「いくさ」を通じて今があるんですね。なんとかなるとイイですね~ほんと(91歳ポンコツ爺)
へぇ~彦根市と水戸市が姉妹都市関係だったのですね。良い話ですね。
桜田門外で井伊直弼が暗殺されたのに領地半減の措置は酷すぎるしかも政敵だった水戸徳川家の慶喜が15代将軍になるんだから彦根藩が勤王派になった時点で錦旗を薩長軍が掲げて来たら彦根藩が薩長に付くのは至極当然なんだよな
幕府が不都合なことをすべて井伊直弼のせいにしたのだから、井伊家が薩長になびいたのも当然と思います。
幕府の足を引っ張るしか能がない水戸藩を改易にしていたら良かった。
@@yh6146様 御三家だしそれは無理では😅
@@yh6146 たとえ大老と言えど御三家の水戸藩を取り潰す事は出来ません。水戸藩と彦根藩と全面戦争になるのは明らかで逆に彦根藩が窮地に追い込まれてしまいます。謹慎処分しか出来ないと思います。
@@ミリタリー親父さまそうですね。越前藩の解体や高田藩の改易は、そして、駿河大納言家の件も、将軍の差配ですね。水戸藩に問題があれば将軍自らが親裁しないと無理ですね。親藩を抑えるには、将軍の絶対的独裁権が必要です。幕閣が主導するような幕府では、駄目だということですね。家臣統制なら幕閣にもできるかもしれませんけど、一族統制は、無理ですね。『番頭さんはオーナー一族には手が出せない』というのはガバナンスとして問題なわけですが、これが幕府の命取りでした。戊午の密勅なんて、本来有り得ない話です。
裏切ったといいますが、一橋慶喜は井伊直弼を暗殺した水戸出身であり、暗殺された後に一橋派が権力を握り、井伊家は10万石を没収されるという理不尽な目に遭っています。更に徳川幕府が出来た時の関ヶ原の合戦でも、小早川の裏切りで徳川幕府は出来たようなもんです。その勝者である東軍の大名も江戸時代には、多くが取り潰しです。また鳥羽伏見の戦いでも、井伊以外に藤堂などの諸藩も裏切っています。更にその前から徳川の親戚である松平春嶽あたりも、坂本龍馬などと交流がありました。そして鳥羽伏見の直後に徳川御三家の紀州という14代将軍で長州征伐した藩さえ、多数の献兵と献金を薩長にしています。井伊も結局は西日本側で、大勢には勝てない一大名ということです。
結局直弼を殺したのは水戸浪士だったから、その水戸藩直系の慶喜に対してはあんまり義理を感じなかっただけですよ。藤堂家は大砲をぶっ放して、幕府軍を敗走させましたけど。でも、現場判断ではそうなりますよね。まともに戦ってるのは幕府軍歩兵隊位で、後はみーんな逃げちゃって。淀の堤に大砲でも撃ち込めばお家は安泰って発想になりますよ。
そういえば 現在でも 彦根は 県内屈指の 教育水準を誇るそうですね
評価は分かれると思いますが、総無責任体制で混迷を極める中、直弼自身は泥をかぶって幕閣の権威を維持するべく安政の大獄を行ないました。桜田門外の変の当日朝には暗殺の動きがあるという警告があったようですが、従容として登城し暗殺されてしまいます。手足となって動いた長野主膳が上げていた情報に偏りがあって、判断を誤ったと悔いていたようですね。しかし、彦根藩はその後徹底的に冷遇されましたから憤懣やるかたない思いを抱くものと、それでも佐幕を説く者とで藩が真っ二つに割れました。結局最終的に幕府に対して反感を持つ側が主導権を握った訳ですが。第三者的に見れば裏切りと見えますが、当時の幕閣は実態としては責任だけ押し付けた人間たちが主導していた組織でもあった訳です。これを非難するのは正直酷かなという気もしますね。
水戸=一橋派は井伊直弼の仇ですしネ。
井伊直弼は、水戸家の殿様(徳川慶篤−慶喜の長兄)からも『我が藩の関係者が襲撃する危険性が有る』と警告する手紙を受け取っていたらしいね。
徳川慶喜の晩年の回想録である『昔夢会筆記』には、直弼のことを「才略には乏しいが、決断力のある人物」と評しているよ。
井伊直弼と言えばやはり藩主になってから製作された朱具足、井伊の金時鎧と言われた赤備えの甲冑が印象的。藩祖・直政を彷彿させる出来の良い甲冑と直弼もまた巨軀であった事を忍ばせる貴重な遺領…色々言われるが私はかなり好きな人物ですね。
直弼が立てた家茂が長生きしていれば、藩を挙げてこういう裏切りに打って出ることも無かったのでは。
裏切りで無く、時代を見抜いた良い藩だたんやろう!
酒井家とはロケーションが違いますよね。彦根市と水戸市の和解は面白い。萩市と会津若松市の友好都市締結は、時期尚早らしいですからね。
桜田門外の変の時に供に付いていた士分以上への賞罰は凄かった。籠を守り切死した者は、家禄安堵。怪我人は怪我が治ったら切腹。家禄半地相続。生き残った者は即刻斬首。家禄没収。
怪我人でも重傷なら助命された。でも藩の飛地に幽閉された。
御三家や譜代筆頭が戊辰戦争になった時に官軍に付いて関ヶ原で敗北して石高を減らされて配置換えされた上杉と佐竹が旧幕府側になるとは皮肉
奥羽は貧乏くじ引いたよね。近隣の会津松平に対する哀れみ?それとも幕府瓦解後の薩長土肥の風下に立ちたくない為の対抗策?ただ単に世良修造の蛮行への鬱憤?何にしても理解し難い動きだ
倒幕の中心の薩長土肥の内薩摩は11代と13代将軍の御台所の実家、長州と肥前は11代将軍の娘が嫁いでいた。幕末には亡くなっていたけど。他にも11代将軍の子どもの養子先や嫁ぎ先で子どもが存命していた大名のほとんどが薩長に付いた。
秋田藩(佐竹)は、尊皇思想のルーツみたいなこともあり、薩長側について盛岡藩と戦ったりしたんだが知らないようだな。
@@戸田賢司 でも白石列藩会議には参加して、同盟を最初から拒否はしてないよね?細かいことは省くが、動きとしてはそんな褒められたもんじゃないでしょ?、盛岡が今でも秋田を裏切り者呼ばわりしてる位だし。ただの裏切り者のくせに得意げに我が秋田は官軍!とか現代でも言ってるから嫌われるんだよ、その報いが今の人口大激減と自殺率日本一に繋がってるんだよ。秋田の田吾作共は反省すべきだな
@@S_McQueen 裏切るにはタイミングが重要だからな。自分だけで裏切っても失敗するだけだ。
安政の大獄で水戸斉昭は永蟄居、慶喜は隠居謹慎、水戸藩の家老が死罪の処分を受けたので、井伊直弼は水戸藩士の恨みを買ったんですよ。そこをスルーすると一方的一橋慶喜から彦根藩が攻撃されていると思う人もいると思うので公平じゃない気がします。
彦根市に松原下屋敷をもとにした松原庭園があります。その表札は井伊直愛になってますね。これを見ると、直政や直弼だけでなく子孫の直愛まで彦根市民の誇りなんですね。
悲劇的な最後を迎えて悪役として描かれることの多い井伊直弼だけど地元民からはちゃんと尊敬され愛されている事は救いだなと思う
像が立っていますしね。
このはなしで、末尾の彦根市長選で井伊市長の対抗馬であったのが、桜田門外で井伊直弼の首級を挙げて、相討ちとなった有村治左衛門の末裔に当たる有村国知氏であった事実も、追加してほしいものである。姉の有村治子氏は現在参議院議員(4期目)として、日本のために一人気を吐いている。治子氏の治の文字は、治左衛門からいただいたものという。
正確には有村兄弟の末っ子の子孫。それなのに、彦根市長選挙に出馬した。だから当時の市長がこんな人間が市長になるべきでは無いとネガキャンしていた。結局現職も有村子孫も落選した。
@@yh6146さん 桜田門外の変では、襲撃した薩摩、水戸の浪士たちは、直弼の首級を挙げるという所期の目的は達したものの、ほぼ全員が、その場での討ち死にや、その後の捕縛によって命を失った。一方井伊家側では殿様を守りきれなかった責を問われて、浪士らにひと太刀も浴びせえなかった者どもはみな、打ち首か切腹させられた。斬り合いをしても、向こう傷のない者は石高を減らされた。すなわち、ほぼ相討ちになったわけである。しかし明治維新は、この桜田門外の変こそが発端となったのであるから、この凄惨なスプラッター事件がなかれば、のちの富国強兵、泰西工芸の躍進日本もなかったことになる。薩摩、水戸の浪士たちは信念のために自分の命を捨てて、欧米列強の植民地施策の餌食とならんとした祖国日本を護持したわけで、彼らのテロ行為は決して無駄死ににはならなかった。彦根の市長選も、有村氏は落選したものの、現職の票田を奪って落選させ、相討ちに持ち込んだのであるから、先祖の事跡を踏襲したともいえないこともない。今現在の日本には、こういう非常の場合に命を捨てて立ち上がる志士がいないことが最大の危機である。
自分は鹿児島人だか、有村国知氏の立候補は、やはり少し無神経だと思いました。ちなみに彦根藩は戊辰戦争直前、幕府軍に付くか新政府軍に付くか全藩士の木札の投票で決めたそうです。結果的に藩内尊皇派が勝ち、徳川家譜代藩の筆頭彦根藩は徳川家を見捨てる羽目に…。
@@小沼浩一さま木札で決めたとは、驚きました。しかし、賢い遣り方でもありますね。阿部伊勢守の遣り方に近いと感じました。
NTTドコモの井伊社長は井伊直弼の子孫でありますから~
なるほどですーだからdocomoは少しの間、鎖国していたんですね。
なにも滅びる主家に義理立てする事も無い。自国の益の為だけ考えればいい。それが本分。
日本では「君君足らざるとも臣臣たるべし」…なんて寝言を言ってますが、本来の「御恩と奉公」で言えば彦根藩の行動は正常ですね。そもそも7割方武田遺臣なんだし…ある意味運が良かったと言えます。
直弼の罰として、多分江戸幕府最後の領地削減処分受けたからな。
@@戸田賢司 彦根藩は10万石削減なのに水戸はあれだけヤラカシテ処罰無し。
主君の遺志を継いで裏金を配分したのに政治犯扱いされる可哀想な安倍派・・・
直弼時代冷や飯を食った門閥家老岡本半介。長野主膳を憎み、変の後動画にあった通り主膳を入牢させ斬首させた。これは新藩主直憲が後ろ盾になった結果だった。親慶喜派だった家老岡本は、大坂城に一緒に詰めていたが彦根藩本隊は京都にとどまり、彦根藩は近江から朝廷に米を送り兵站を支えていた。すでに岡本ははしごを外されていた。
今の井伊家当主は、彦根市教育委員会事務局市史編纂室に勤務(主任級職員)していて奥さんと職場結婚したそうな。奥さんは二人姉妹の長女で、先祖の話である大河ドラマ「おんな城主直虎」に身につまされたそう。
10万石減封されたんだもん、当たり前じゃん、今の井伊家は婿養子じゃん。
彦根の街を歩いた時に感じたが、井伊直弼の生きた時代が動乱の無い平和な世の中だったら織田有楽斎や「不昧公」松平治郷と並ぶ大名茶人として名を残したと思う。
わかりやすいですね、あとは天狗党の一件などもありましたね
大河ドラマの直虎で見ましたけど、井伊を継ぐのは大変ですね。
直弼は日本を憂い先を見通した英断をしたにも関わらず直弼死去後、攘夷派に押された幕府は10万石の減俸。会津容保もこの時に幕府とは距離を置いて置くべきでした。
会津の場合は初代藩主の保科正之の家訓で「徳川宗家に対して忠勤を尽くすべし」と成って居て、「藩主に二心が有ればその者は子孫出はない家臣は従わなくても良い」と有ったから生真面目に徳川宗家に尽くしたので幕末から戊辰戦争で会津藩は悲惨な結果になった。
@@73moto様仰るとおりですね。徳川宗家と言っても、水戸出身の徳川宗家では、なかなか難しいですね。幕府の土台を掘り崩すようなことをしたのが水戸藩なわけですから。家訓自体の前提が崩壊していた、と割り切ればよかったのだと思います。
井伊家は裏切りと思うが今から思えはま先見の明があると解釈できます今に活躍していることは凄いです🎉
京都から江戸への重要な拠点である彦根がなぜ戦場とならなかったのか?という答えですねもし桜田門外の変が起きなければ、会津の闘いは起きず、彦根が代わりに戦場となっていたのでは?と思ったりします
鳥羽伏見の敗残兵も彦根に集結してたでしょうし、東西分かれて大激戦になっていたでしょうね。
@@rekishock コメント頂きありがとうございます実は彦根市出身ですが、彦根においてはこの井伊大老が暗殺されて以降の歴史については地元でもほとんど話題になりませんし、教育等受けていません事実上タブー扱いです今までは当事者の血縁の方が多くいるので避けていたということもあったのでしょうがやはり、徳川譜代筆頭であるはずの井伊家が新政府軍についたという事実は地元として誇りにしにくいでも、それがなければ今の彦根はなく国宝もひこにゃんもなかったことでしょう
あの情勢で、戦国の世ならば官軍(いや、西軍)に付くのは当然かと思います。もちろん、井伊家は、今川氏により、ほぼ滅ぼされていたような状況で、徳川家康公に取立てられているという恩はありますけども。桜田門外の変の事後処理を見れば、彦根藩として、徳川家への義理は充分果たした、そして、このような処置ではもはや幕府とは手切れとなっても仕方ないといえるかと思います。仮に、幕府が彦根藩からの忠義を当てにしていたとすれば、見当違いも甚だしいと思います。幕府として、親藩を身贔屓すれば、譜代家臣が離れるのは当然です。会津や桑名は親藩ですゆえ、幕府に殉じるとしても、譜代諸藩の心は離れて当然と思います。桜田門外の変の事後処理として、水戸藩を叩けば少しは違った展開もあったかと思います。東北の外様諸藩は、西南諸藩の風下に立ちたくなかったのだと思います。後北条氏と同じ過ちですね。それと、会津藩と庄内藩への義理立てかと思います。つまり、藩士層が官製武士道に毒されていた。結局、藩主独裁体制でなくて、藩士共の主導で下手を打ちました。
彦根藩は次第に倒幕に傾いたと言われるな譜代大名筆頭であり、徳川の幕藩体制の中核を担っていた井伊家が倒幕に傾くとはこれは幕府側の失態だ
水戸藩も憐れな藩です何も井伊直弼を暗殺することおはないのに時代は開国に向かいこのように初版は世界を見ていないのか哀れなものです。これでは薩摩藩、長州藩、土佐藩に先を越されては何もならず。
水戸学を背景に尊王攘夷運動を当初こそ主導した水戸藩であったが、藩内抗争により人材のことごとくを失ったため、藩出身者が創立当初の新政府で重要な地位を占めることはなかったと言われていますね。
新政府軍に恭順したとしても幕府軍と積極的に戦うのはいかがなものかと思います。
徳川宗家は早く絶えており、水戸=一橋派は井伊直弼の仇ですからネ!。直弼後の幕府の彦根藩に対する冷遇もあったし、単なる計算だけではなく、藩士らの心が離れていたのでしょう。仕方ないですね。
そういう立場の奴こそ、一生懸命戦わなければ忠誠を示せないわけで。
まあ、最後の将軍は水戸出身の慶喜だし、そこは含むものもあっただろうね
何十年も前のことですが、彦根市長が直弼の子孫の井伊市長になった時 当時の水戸市と姉妹都市関係を結んだ。
坂下門外の変で襲われた安藤信正もそうだったけど、長く平和が続いたことによる形式主義と観念論の時代だったので、大名が襲われるなど武門の恥であるということで、被害者が詰められ、責任を問われることになった。これによってそれなりに優秀だった安藤は失脚する。やっぱり、いろいろ制度疲労を起こしていたんだろう。観念論といえば水戸が最たるものだけど、長州もそんなところがあるし、要は首をとるのが仕事の戦闘員が官僚になって200年もたてば、おかしなことになるのかも。
ひこにゃん『殿様 彦根城を守ってくれて ありがとにゃん』
先月会ってきたけど可愛かったよ。お城よりひこにゃん見に来てる人の方が多い位😂(ФωФ)v
井伊家や藤堂家に触れられましたけど、作家司馬遼太郎氏は筒井家にも作品で触れ「洞が峠以来の家風」って口汚く罵っていますね。徳川御三家筆頭の尾張家も転び、寝技が得意な尾張者って、別の作者は書いています。一度体制に付いたら、運命に従うのが日本人の美風と見なされています。豊臣大名の裏切りにも、関係した地元とでは評価に差が出ます。
今晩は、はじめまして、伊藤です。自分の曾祖父の父親は、尾張藩の御用船奉行を、していました。なので、余り、尾張藩の悪口は、言わないで下さい。尾張藩は、親藩筆頭ながら、将軍家に、散々、煮え湯を飲まされたので、錦の御旗の味方を、しました。でも、長州征伐の司令官も、やっていましたから、裏切りではないです。藩内でも、勤皇か、佐幕か、もめましたから。
負け組になることで定評がある佐竹家(頼朝にも負け、関ヶ原でも負け)が幕末では珍しく勝つ方についた。
主君を変えず、は江戸時代に確立した風潮。戦国時代は、負ければ命を失うのですからダメ主君を見放し主君を変えるのはいわば常識でした。江戸時代の感覚で小説家等が戦国武将を論じるのはちょっと頂けません。
@@中村光男-o7d さんへ、伊藤です。幕末も、大政奉還後は、錦の御旗が、上がった事により、それぞれの家が、どうするかは、藩主が決める事、もう、幕府は、無い状態、ですからね。
@@伊藤健太郎-k1d さんへ。同感です。自らの責任において判断するのは昔も今も変わりません。今の政府のグズグズ・グダグダな判断では生き残れませんね。
国宝彦根城を?1944年まで維持して個人で所有していた?地域社会の支援もあっただろうけど、明治以降も大変な財力を持っていたってことですね。
井伊直弼の基本的な考え方は間違っていなかったんだけどやり方を間違えたため暗殺され徳川幕府の屋台骨が崩壊するきっかけを作ってしまった
彦根城を望む国道8号線近くに石田みつなりの佐和山城があります
家康の遺言で徳川の戦は先鋒の第一は藤堂家、第二は井伊家と定められたが領民、朝廷か徳川のどちらに付くかという判断では領民、朝廷を選んだのでしょうか。もし領民、徳川か朝廷という選択なら領民、徳川を選んだと思います。藩祖高虎も直政もそうだと思います。
笑えるのは相変わらずの津藩の藤堂家高虎は風見鶏で主君を変えまくったから、やっぱり真っ先に戊辰も裏切ったかと思いましたね。
風見鶏でありません。直弼と同じく逆境の連続で主君を変えただけ。戦乱の世を終わらせる主君を探しての移籍です。後の世の学者や小説家によって貶めるような盛った表現が一般化した不幸があった結果です。ちゃんとした史実を調べれば解ることですね。
実は藤堂家が戦場で裏切ったのは鳥羽伏見が初なんだ。高虎さんは所属先はコロコロ変えても、「コイツ、どっちに付くんだ」みたいに両天秤したことはないから。
いやいや高虎はアメリカ流のキャリアアップ転職派なだけで所属した主君を裏切ったことは一度もないぞ。転職の例を一つ上げると「管理職で給料20万。残業手当なし、自腹接待」っていうやりがい搾取待遇に腹を立てて転職とかだからな。有名な豊臣秀長社長が「力仕事の現場作業ばかりでなくマネジメントや設計知識も学べ」ってキャリアアップの研修を受けさたくらいの忠臣だ。豊臣秀長社が潰れたときなんか親会社の秀吉社長から本社勤務にしたるって誘い断って3年間も高野山で秀長社長の菩提弔ってニートしてたんだぞ
井伊直弼を殺害されながら改易を許されながら徳川家の先鋒を自他ともに認める井伊家の裏切りは衝撃的他にも譜代大垣宇都宮戸田、福山阿部、越前大野土屋、願い譜代の松代真田家、家康子孫の鳥取岡山池田、外様ながら井伊家と先鋒を任された津藤堂家など更には御三家筆頭尾張徳川家に上田や松本の松平家など裏切りの連続幕末安政の諸改革によって大名達は徳川将軍家から領地を預けられている存在から領主と思い込む様になったのでしょう徳川将軍家あっての大名という事実を忘れてしまった裏切りの代償は
大政奉還をしたのだから、既に幕府は存在しておらず、徳川慶喜は敵対していた相手側なので、背いて当然です。主君でも無い相手に裏切りとは言えないのではないでしょうか。
薩摩や長州は、井伊に安政の大獄の恨みはなかったのかね?
幕末の骨抜き対応。
「切腹」
譜代筆頭と言っても井伊家は家康の代で家臣になった新参だからなあ
普通なら譜代は代々使えた家臣のはずだけど、関ケ原前の家臣は全て譜代にしたし、稲葉や堀田の様に旗本からの取り立てや柳沢や間部の様に陪臣からの取り立てを譜代にしたし、外様でも脇坂の様に譜代から養子を迎えて譜代になったとかあった。
新参(本来の外様)は去就の自由があってとがめられないってことな
井伊家は南北朝時代から遠江の豪族として活躍し戦国時代は今川の傘下に入っていた。時代の変革期にそこまで徳川に従う必要は無かった。
八介に数えられる名門武家ですね。
新幹線🚅の駅は米原✨🙄
彦根藩の裏切りは許されない
むしろ慶喜の首を斬って担いで豪徳寺に参りたいぐらいだったでしょ これで忠臣
譜代筆頭の井伊や尾張徳川家が徳川宗家に刃を向けてしまう。あの世にいる大権現様はどう思ったのだろう
徳川宗家は、実の所、綱吉の代で絶えています。宗家の解釈にもよりましょうが。
家康は、本人の実力だけで家臣を統率してきたんだから、忠義なんて負けそうな時には何の役にも立たないことをよく知ってるでしょう。
@@戸田賢司少し違うような気がします。 忠義も君臣間の信頼関係があってこそ。 家康の実力は家臣との強い信頼関係に基づく家臣団の統率力によるものではないかと思います。 家康なら、当時の幕閣のやり方に、裏切られても仕方ないと思ったのではないでしょうか。 その意味では、貴方は正しい。
@@fanasimov96 家康の祖父も父も内部の敵にやられてるからねえ。心の中では家康も三河武士達も忠義なんて大して信じてなかったと思うよ。幕府作って神格化されたから全員忠義の人みたいになったけど。
@@戸田賢司 貴方は人と人との信頼関係がなくても組織は動くと考えているのですか。
御恩と奉公は、八幡太郎義家以来の武家の常識でしょう。
長州征伐の時の装備が旧式だったから惨敗した話は実際は違うと思う。戦場になったところは国境の川越えたらすぐ山という地形で攻め側が圧倒的に不利で最新式の銃持ってても無理。但し長州兵は数が少ないから他藩も含めての一斉渡河攻撃なら長州もどうにもならかったと思うけど、彦根藩だけで攻撃して、長州から回り込まれたり、追撃されたりしても援護してくれる友軍もいない状況になってるんだから、戦術が悪いというかそもそも指揮が崩壊してる感じ。
現在の当主は婿さんだと言っていたけど、直~さんというのは偶然なのかな?改名?まさか、直の字が付いていることが第一条件!?
本名は井伊岳夫。家督を継いでから直岳と名乗っている。
@@yh6146 教えて頂きありがとうございます。通称なのか法的に改名したのかは知りませんが、名家も大変なんですねぇ…
くやし よしだしょいん うらぎりもの どくがわ なりあき iiなおすけだいろに てぽうてるし ふあんする むろん しあわせごと
井伊直弼が朝廷を無視して締結した不平等条約によって日本国内の金や銀がタダ同然の値段で海外に流れていった事実を無視しないように水戸家家臣と薩摩浪士が直弼を襲撃した理由の一つと言われています 歴史的エビデンスあり幕府の不都合な事を押し付けられる覚悟もない大老って過去の大老職の人たちに対しても失礼ですよ(笑)
そもそも最初は不平等条約では無い。薩長がテロを起こして賠償金を幕府に押し付けたけど、財政難で賠償金を払えないから関税を大幅に下げて補填せざるを得なかった。だから明治政府が不平等条約の改正で苦労したのは完全に自業自得。
@@yh6146さまそうなのですか。交渉にあたった林大学頭など、相当に切れ者と聞きますから、迂闊なことはやらないハズですね。やはりそんなことだつたのですか。
事実やった事だけみれば卑怯な裏切り者といわれても仕方ない 何があっても主家を裏切らないというのが武士道 武士はニ君にまみえず
そんな戯言は江戸時代からなので。ご恩と奉公のギブアンドテイクが本来の武士道だ。
@@戸田賢司 武士は会社員とは違いますよ 爆笑
武家諸法度をもっと勉強してね
@@tomoyuki74 武家諸法度なんて、武士が生まれてから500年以上も経ってからのにわか法律がどうかしましたか。
@@戸田賢司 井伊家の裏切りの正当性を八幡太郎の時代のギブ&テイクで論じるのは現代の犯罪者の正当性の根拠を戦国時代の理法で述べるようなものです そのにわか法律を作った徳川家の大老が直弼ではなかったですか? 爆笑
水戸が悪い
そう考えると八戸南部はすごかった。
井伊直弼って中曽根とか小泉親子とか安倍晋三とか竹中平蔵みたいな奴だよね。
戦の際には先陣を任される家柄なのに裏切るとか恥知らずにもほどがある藤堂藩と並ぶこの世には存在してはいけない裏切り者
いつも面白い動画ありがとうございます。
江戸時代以降の歴史の繋がりが感じられる動画ばかりでとても勉強になります。
井伊直弼以後の彦根藩の動きは全然注視していませんでしたし、長期政権となった戦後の市長の話も全く聞いたことがありませんでした。
素晴らしいナレーションお見事でした。人間関係のいろいろが入り組んでいて人に話して聞かせるよになるまで大変です(笑)歴史っていうと世界中でどこの国も「いくさ」を通じて今があるんですね。なんとかなるとイイですね~ほんと(91歳ポンコツ爺)
へぇ~彦根市と水戸市が姉妹都市関係だったのですね。良い話ですね。
桜田門外で井伊直弼が暗殺されたのに領地半減の措置は酷すぎる
しかも政敵だった水戸徳川家の慶喜が15代将軍になるんだから
彦根藩が勤王派になった時点で錦旗を薩長軍が掲げて来たら彦根藩が薩長に
付くのは至極当然なんだよな
幕府が不都合なことをすべて井伊直弼のせいにしたのだから、井伊家が薩長になびいたのも当然と思います。
幕府の足を引っ張るしか能がない水戸藩を改易にしていたら良かった。
@@yh6146様 御三家だしそれは無理では😅
@@yh6146 たとえ大老と言えど御三家の水戸藩を取り潰す事は出来ません。水戸藩と彦根藩と全面戦争になるのは明らかで逆に彦根藩が窮地に追い込まれてしまいます。謹慎処分しか出来ないと思います。
@@ミリタリー親父さま
そうですね。
越前藩の解体や高田藩の改易は、そして、駿河大納言家の件も、将軍の差配ですね。
水戸藩に問題があれば将軍自らが親裁しないと無理ですね。
親藩を抑えるには、将軍の絶対的独裁権が必要です。幕閣が主導するような幕府では、駄目だということですね。家臣統制なら幕閣にもできるかもしれませんけど、一族統制は、無理ですね。
『番頭さんはオーナー一族には手が出せない』というのはガバナンスとして問題なわけですが、これが幕府の命取りでした。
戊午の密勅なんて、本来有り得ない話です。
裏切ったといいますが、一橋慶喜は井伊直弼を暗殺した水戸出身であり、暗殺された後に一橋派が権力を握り、井伊家は10万石を没収されるという理不尽な目に遭っています。更に徳川幕府が出来た時の関ヶ原の合戦でも、小早川の裏切りで徳川幕府は出来たようなもんです。その勝者である東軍の大名も江戸時代には、多くが取り潰しです。また鳥羽伏見の戦いでも、井伊以外に藤堂などの諸藩も裏切っています。更にその前から徳川の親戚である松平春嶽あたりも、坂本龍馬などと交流がありました。そして鳥羽伏見の直後に徳川御三家の紀州という14代将軍で長州征伐した藩さえ、多数の献兵と献金を薩長にしています。井伊も結局は西日本側で、大勢には勝てない一大名ということです。
結局直弼を殺したのは水戸浪士だったから、その水戸藩直系の慶喜に対してはあんまり義理を感じなかっただけですよ。藤堂家は大砲をぶっ放して、幕府軍を敗走させましたけど。でも、現場判断ではそうなりますよね。まともに戦ってるのは幕府軍歩兵隊位で、後はみーんな逃げちゃって。淀の堤に大砲でも撃ち込めばお家は安泰って発想になりますよ。
そういえば 現在でも 彦根は 県内屈指の 教育水準を誇るそうですね
評価は分かれると思いますが、総無責任体制で混迷を極める中、直弼自身は泥をかぶって幕閣の権威を維持するべく安政の大獄を行ないました。
桜田門外の変の当日朝には暗殺の動きがあるという警告があったようですが、従容として登城し暗殺されてしまいます。
手足となって動いた長野主膳が上げていた情報に偏りがあって、判断を誤ったと悔いていたようですね。
しかし、彦根藩はその後徹底的に冷遇されましたから憤懣やるかたない思いを抱くものと、それでも佐幕を説く者とで藩が真っ二つに割れました。
結局最終的に幕府に対して反感を持つ側が主導権を握った訳ですが。
第三者的に見れば裏切りと見えますが、当時の幕閣は実態としては責任だけ押し付けた人間たちが主導していた組織でもあった訳です。
これを非難するのは正直酷かなという気もしますね。
水戸=一橋派は井伊直弼の仇ですしネ。
井伊直弼は、水戸家の殿様(徳川慶篤−慶喜の長兄)からも『我が藩の関係者が襲撃する危険性が有る』と警告する手紙を受け取っていたらしいね。
徳川慶喜の晩年の回想録である『昔夢会筆記』には、直弼のことを「才略には乏しいが、決断力のある人物」と評しているよ。
井伊直弼と言えばやはり藩主になってから製作された朱具足、井伊の金時鎧と言われた赤備えの甲冑が印象的。
藩祖・直政を彷彿させる出来の良い甲冑と直弼もまた巨軀であった事を忍ばせる貴重な遺領…
色々言われるが私はかなり好きな人物ですね。
直弼が立てた家茂が長生きしていれば、藩を挙げてこういう裏切りに打って出ることも無かったのでは。
裏切りで無く、時代を見抜いた良い藩だたんやろう!
酒井家とはロケーションが違いますよね。彦根市と水戸市の和解は面白い。萩市と会津若松市の友好都市締結は、時期尚早らしいですからね。
桜田門外の変の時に供に付いていた士分以上への賞罰は凄かった。
籠を守り切死した者は、家禄安堵。
怪我人は怪我が治ったら切腹。家禄半地相続。
生き残った者は即刻斬首。家禄没収。
怪我人でも重傷なら助命された。でも藩の飛地に幽閉された。
御三家や譜代筆頭が戊辰戦争になった時に官軍に付いて関ヶ原で敗北して石高を減らされて配置換えされた上杉と佐竹が旧幕府側になるとは皮肉
奥羽は貧乏くじ引いたよね。
近隣の会津松平に対する哀れみ?
それとも幕府瓦解後の薩長土肥の風下に立ちたくない為の対抗策?
ただ単に世良修造の蛮行への鬱憤?
何にしても理解し難い動きだ
倒幕の中心の薩長土肥の内薩摩は11代と13代将軍の御台所の実家、長州と肥前は11代将軍の娘が嫁いでいた。幕末には亡くなっていたけど。他にも11代将軍の子どもの養子先や嫁ぎ先で子どもが存命していた大名のほとんどが薩長に付いた。
秋田藩(佐竹)は、尊皇思想のルーツみたいなこともあり、薩長側について盛岡藩と戦ったりしたんだが知らないようだな。
@@戸田賢司
でも白石列藩会議には参加して、
同盟を最初から拒否はしてないよね?細かいことは省くが、
動きとしてはそんな褒められたもんじゃないでしょ?
、盛岡が今でも秋田を裏切り者呼ばわりしてる位だし。
ただの裏切り者のくせに得意げに我が秋田は官軍!とか現代でも言ってるから嫌われるんだよ、その報いが今の人口大激減と自殺率日本一に繋がってるんだよ。秋田の田吾作共は反省すべきだな
@@S_McQueen
裏切るにはタイミングが重要だからな。自分だけで裏切っても失敗するだけだ。
安政の大獄で水戸斉昭は永蟄居、慶喜は隠居謹慎、水戸藩の家老が死罪の処分を受けたので、井伊直弼は水戸藩士の恨みを買ったんですよ。そこをスルーすると一方的一橋慶喜から彦根藩が攻撃されていると思う人もいると思うので公平じゃない気がします。
彦根市に松原下屋敷をもとにした松原庭園があります。その表札は井伊直愛になってますね。これを見ると、直政や直弼だけでなく子孫の直愛まで彦根市民の誇りなんですね。
悲劇的な最後を迎えて悪役として描かれることの多い井伊直弼だけど地元民からはちゃんと尊敬され愛されている事は救いだなと思う
像が立っていますしね。
このはなしで、末尾の彦根市長選で井伊市長の対抗馬であったのが、桜田門外で井伊直弼の首級を挙げて、相討ちとなった有村治左衛門の末裔に当たる有村国知氏であった事実も、追加してほしいものである。姉の有村治子氏は現在参議院議員(4期目)として、日本のために一人気を吐いている。治子氏の治の文字は、治左衛門からいただいたものという。
正確には有村兄弟の末っ子の子孫。それなのに、彦根市長選挙に出馬した。だから当時の市長がこんな人間が市長になるべきでは無いとネガキャンしていた。結局現職も有村子孫も落選した。
@@yh6146さん
桜田門外の変では、襲撃した薩摩、水戸の浪士たちは、直弼の首級を挙げるという所期の目的は達したものの、ほぼ全員が、その場での討ち死にや、その後の捕縛によって命を失った。一方井伊家側では殿様を守りきれなかった責を問われて、浪士らにひと太刀も浴びせえなかった者どもはみな、打ち首か切腹させられた。斬り合いをしても、向こう傷のない者は石高を減らされた。すなわち、ほぼ相討ちになったわけである。しかし明治維新は、この桜田門外の変こそが発端となったのであるから、この凄惨なスプラッター事件がなかれば、のちの富国強兵、泰西工芸の躍進日本もなかったことになる。
薩摩、水戸の浪士たちは信念のために自分の命を捨てて、欧米列強の植民地施策の餌食とならんとした祖国日本を護持したわけで、彼らのテロ行為は決して無駄死ににはならなかった。
彦根の市長選も、有村氏は落選したものの、現職の票田を奪って落選させ、相討ちに持ち込んだのであるから、先祖の事跡を踏襲したともいえないこともない。今現在の日本には、こういう非常の場合に命を捨てて立ち上がる志士がいないことが最大の危機である。
自分は鹿児島人だか、有村国知氏の立候補は、やはり少し無神経だと思いました。
ちなみに彦根藩は戊辰戦争直前、幕府軍に付くか新政府軍に付くか全藩士の木札の投票で決めたそうです。
結果的に藩内尊皇派が勝ち、徳川家譜代藩の筆頭彦根藩は徳川家を見捨てる羽目に…。
@@小沼浩一さま
木札で決めたとは、驚きました。
しかし、賢い遣り方でもありますね。阿部伊勢守の遣り方に近いと感じました。
NTTドコモの井伊社長は井伊直弼の子孫でありますから~
なるほどですー
だからdocomoは少しの間、
鎖国していたんですね。
なにも滅びる主家に義理立てする事も無い。自国の益の為だけ考えればいい。それが本分。
日本では「君君足らざるとも臣臣たるべし」…なんて寝言を言ってますが、本来の「御恩と奉公」で言えば彦根藩の行動は正常ですね。そもそも7割方武田遺臣なんだし…ある意味運が良かったと言えます。
直弼の罰として、多分江戸幕府最後の領地削減処分受けたからな。
@@戸田賢司 彦根藩は10万石削減なのに水戸はあれだけヤラカシテ処罰無し。
主君の遺志を継いで裏金を配分したのに政治犯扱いされる可哀想な安倍派・・・
直弼時代冷や飯を食った門閥家老岡本半介。長野主膳を憎み、変の後動画にあった通り主膳を入牢させ斬首させた。これは新藩主直憲が後ろ盾になった結果だった。親慶喜派だった家老岡本は、大坂城に一緒に詰めていたが彦根藩本隊は京都にとどまり、彦根藩は近江から朝廷に米を送り兵站を支えていた。すでに岡本ははしごを外されていた。
今の井伊家当主は、彦根市教育委員会事務局市史編纂室に勤務(主任級職員)していて奥さんと職場結婚したそうな。奥さんは二人姉妹の長女で、先祖の話である大河ドラマ「おんな城主直虎」に身につまされたそう。
10万石減封されたんだもん、当たり前じゃん、今の井伊家は婿養子じゃん。
彦根の街を歩いた時に感じたが、井伊直弼の生きた時代が動乱の無い平和な世の中だったら
織田有楽斎や「不昧公」松平治郷と並ぶ大名茶人として名を残したと思う。
わかりやすいですね、あとは天狗党の一件などもありましたね
大河ドラマの直虎で見ましたけど、井伊を継ぐのは大変ですね。
直弼は日本を憂い先を見通した英断をしたにも関わらず直弼死去後、攘夷派に押された幕府は10万石の減俸。会津容保もこの時に幕府とは距離を置いて置くべきでした。
会津の場合は初代藩主の保科正之の家訓で「徳川宗家に対して忠勤を尽くすべし」と成って居て、「藩主に二心が有ればその者は子孫出はない家臣は従わなくても良い」と有ったから生真面目に徳川宗家に尽くしたので幕末から戊辰戦争で会津藩は悲惨な結果になった。
@@73moto様
仰るとおりですね。徳川宗家と言っても、水戸出身の徳川宗家では、なかなか難しいですね。幕府の土台を掘り崩すようなことをしたのが水戸藩なわけですから。
家訓自体の前提が崩壊していた、と割り切ればよかったのだと思います。
井伊家は裏切りと思うが今から思えはま先見の明があると解釈できます
今に活躍していることは凄いです🎉
京都から江戸への重要な拠点である彦根がなぜ戦場とならなかったのか?
という答えですね
もし桜田門外の変が起きなければ、会津の闘いは起きず、彦根が代わりに戦場となっていたのでは?
と思ったりします
鳥羽伏見の敗残兵も彦根に集結してたでしょうし、東西分かれて大激戦になっていたでしょうね。
@@rekishock コメント頂きありがとうございます
実は彦根市出身ですが、彦根においてはこの井伊大老が暗殺されて以降の歴史については地元でもほとんど話題になりませんし、教育等受けていません
事実上タブー扱いです
今までは当事者の血縁の方が多くいるので避けていたということもあったのでしょうが
やはり、徳川譜代筆頭であるはずの井伊家が新政府軍についたという事実は地元として誇りにしにくい
でも、それがなければ今の彦根はなく国宝もひこにゃんもなかったことでしょう
あの情勢で、戦国の世ならば官軍(いや、西軍)に付くのは当然かと思います。もちろん、井伊家は、今川氏により、ほぼ滅ぼされていたような状況で、徳川家康公に取立てられているという恩はありますけども。
桜田門外の変の事後処理を見れば、彦根藩として、徳川家への義理は充分果たした、そして、このような処置ではもはや幕府とは手切れとなっても仕方ないといえるかと思います。仮に、幕府が彦根藩からの忠義を当てにしていたとすれば、見当違いも甚だしいと思います。
幕府として、親藩を身贔屓すれば、譜代家臣が離れるのは当然です。会津や桑名は親藩ですゆえ、幕府に殉じるとしても、譜代諸藩の心は離れて当然と思います。桜田門外の変の事後処理として、水戸藩を叩けば少しは違った展開もあったかと思います。
東北の外様諸藩は、西南諸藩の風下に立ちたくなかったのだと思います。後北条氏と同じ過ちですね。それと、会津藩と庄内藩への義理立てかと思います。つまり、藩士層が官製武士道に毒されていた。結局、藩主独裁体制でなくて、藩士共の主導で下手を打ちました。
彦根藩は次第に倒幕に傾いたと言われるな
譜代大名筆頭であり、徳川の幕藩体制の中核を担っていた井伊家が倒幕に傾くとは
これは幕府側の失態だ
水戸藩も憐れな藩です何も井伊直弼を暗殺することおはないのに時代は開国に向かいこのように初版は世界を見ていないのか哀れなものです。これでは薩摩藩、長州藩、土佐藩に先を越されては何もならず。
水戸学を背景に尊王攘夷運動を当初こそ主導した水戸藩であったが、藩内抗争により人材のことごとくを失ったため、藩出身者が創立当初の新政府で重要な地位を占めることはなかったと言われていますね。
新政府軍に恭順したとしても幕府軍と積極的に戦うのはいかがなものかと思います。
徳川宗家は早く絶えており、水戸=一橋派は井伊直弼の仇ですからネ!。直弼後の幕府の彦根藩に対する冷遇もあったし、単なる計算だけではなく、藩士らの心が離れていたのでしょう。仕方ないですね。
そういう立場の奴こそ、一生懸命戦わなければ忠誠を示せないわけで。
まあ、最後の将軍は水戸出身の慶喜だし、そこは含むものもあっただろうね
何十年も前のことですが、彦根市長が直弼の子孫の井伊市長になった時 当時の水戸市と姉妹都市関係を結んだ。
坂下門外の変で襲われた安藤信正もそうだったけど、長く平和が続いたことによる形式主義と観念論の時代だったので、大名が襲われるなど武門の恥であるということで、被害者が詰められ、責任を問われることになった。これによってそれなりに優秀だった安藤は失脚する。やっぱり、いろいろ制度疲労を起こしていたんだろう。観念論といえば水戸が最たるものだけど、長州もそんなところがあるし、要は首をとるのが仕事の戦闘員が官僚になって200年もたてば、おかしなことになるのかも。
ひこにゃん『殿様 彦根城を守ってくれて ありがとにゃん』
先月会ってきたけど可愛かったよ。
お城よりひこにゃん見に来てる人の方が多い位😂(ФωФ)v
井伊家や藤堂家に触れられましたけど、作家司馬遼太郎氏は筒井家にも作品で触れ「洞が峠以来の家風」って口汚く罵っていますね。
徳川御三家筆頭の尾張家も転び、寝技が得意な尾張者って、別の作者は書いています。
一度体制に付いたら、運命に従うのが日本人の美風と見なされています。
豊臣大名の裏切りにも、関係した地元とでは評価に差が出ます。
今晩は、はじめまして、伊藤です。
自分の曾祖父の父親は、尾張藩の御用船奉行を、していました。
なので、余り、尾張藩の悪口は、言わないで下さい。
尾張藩は、親藩筆頭ながら、将軍家に、散々、煮え湯を飲まされたので、錦の御旗の味方を、しました。
でも、長州征伐の司令官も、やっていましたから、裏切りではないです。
藩内でも、勤皇か、佐幕か、もめましたから。
負け組になることで定評がある佐竹家(頼朝にも負け、関ヶ原でも負け)が幕末では珍しく勝つ方についた。
主君を変えず、は江戸時代に確立した風潮。戦国時代は、負ければ命を失うのですからダメ主君を見放し主君を変えるのはいわば常識でした。江戸時代の感覚で小説家等が戦国武将を論じるのはちょっと頂けません。
@@中村光男-o7d さんへ、伊藤です。幕末も、大政奉還後は、錦の御旗が、上がった事により、それぞれの家が、どうするかは、藩主が決める事、もう、幕府は、無い状態、ですからね。
@@伊藤健太郎-k1d さんへ。同感です。
自らの責任において判断するのは昔も今も変わりません。今の政府のグズグズ・グダグダな判断では生き残れませんね。
国宝彦根城を?1944年まで維持して個人で所有していた?
地域社会の支援もあっただろうけど、明治以降も大変な財力を持っていたってことですね。
井伊直弼の基本的な考え方は間違っていなかったんだけどやり方を間違えたため暗殺され徳川幕府の屋台骨が崩壊するきっかけを作ってしまった
彦根城を望む国道8号線
近くに石田みつなりの佐和山城があります
家康の遺言で徳川の戦は先鋒の第一は藤堂家、第二は井伊家と定められたが
領民、朝廷か徳川のどちらに付くかという判断では
領民、朝廷を選んだのでしょうか。
もし領民、徳川か朝廷という選択なら領民、徳川を選んだと思います。
藩祖高虎も直政もそうだと思います。
笑えるのは相変わらずの津藩の藤堂家
高虎は風見鶏で主君を変えまくったから、やっぱり真っ先に戊辰も裏切ったかと思いましたね。
風見鶏でありません。直弼と同じく逆境の連続で主君を変えただけ。戦乱の世を終わらせる主君を探しての移籍です。後の世の学者や小説家によって貶めるような盛った表現が一般化した不幸があった結果です。ちゃんとした史実を調べれば解ることですね。
実は藤堂家が戦場で裏切ったのは鳥羽伏見が初なんだ。高虎さんは所属先はコロコロ変えても、「コイツ、どっちに付くんだ」みたいに両天秤したことはないから。
いやいや高虎はアメリカ流のキャリアアップ転職派なだけで所属した主君を裏切ったことは
一度もないぞ。転職の例を一つ上げると「管理職で給料20万。残業手当なし、自腹接待」
っていうやりがい搾取待遇に腹を立てて転職とかだからな。
有名な豊臣秀長社長が「力仕事の現場作業ばかりでなくマネジメントや設計知識も学べ」
ってキャリアアップの研修を受けさたくらいの忠臣だ。豊臣秀長社が潰れたときなんか
親会社の秀吉社長から本社勤務にしたるって誘い断って3年間も高野山で秀長社長の菩提
弔ってニートしてたんだぞ
井伊直弼を殺害されながら改易を許されながら徳川家の先鋒を自他ともに認める井伊家の裏切りは衝撃的
他にも譜代大垣宇都宮戸田、福山阿部、越前大野土屋、願い譜代の松代真田家、家康子孫の鳥取岡山池田、外様ながら井伊家と先鋒を任された津藤堂家など
更には御三家筆頭尾張徳川家に上田や松本の松平家など裏切りの連続
幕末安政の諸改革によって大名達は徳川将軍家から領地を預けられている存在から領主と思い込む様になったのでしょう
徳川将軍家あっての大名という事実を忘れてしまった裏切りの代償は
大政奉還をしたのだから、既に幕府は存在しておらず、徳川慶喜は敵対していた相手側なので、背いて当然です。主君でも無い相手に裏切りとは言えないのではないでしょうか。
薩摩や長州は、井伊に安政の大獄の恨みはなかったのかね?
幕末の骨抜き対応。
「切腹」
譜代筆頭と言っても井伊家は家康の代で家臣になった新参だからなあ
普通なら譜代は代々使えた家臣のはずだけど、関ケ原前の家臣は全て譜代にしたし、稲葉や堀田の様に旗本からの取り立てや柳沢や間部の様に陪臣からの取り立てを譜代にしたし、外様でも脇坂の様に譜代から養子を迎えて譜代になったとかあった。
新参(本来の外様)は去就の自由があってとがめられないってことな
井伊家は南北朝時代から遠江の豪族として活躍し戦国時代は今川の傘下に入っていた。
時代の変革期にそこまで徳川に従う必要は無かった。
八介に数えられる名門武家ですね。
新幹線🚅の駅は米原✨🙄
彦根藩の裏切りは許されない
むしろ慶喜の首を斬って担いで豪徳寺に参りたいぐらいだったでしょ これで忠臣
譜代筆頭の井伊や尾張徳川家が徳川宗家に刃を向けてしまう。
あの世にいる大権現様はどう思ったのだろう
徳川宗家は、実の所、綱吉の代で絶えています。宗家の解釈にもよりましょうが。
家康は、本人の実力だけで家臣を統率してきたんだから、忠義なんて負けそうな時には何の役にも立たないことをよく知ってるでしょう。
@@戸田賢司少し違うような気がします。
忠義も君臣間の信頼関係があってこそ。
家康の実力は家臣との強い信頼関係に基づく家臣団の統率力によるものではないかと思います。
家康なら、当時の幕閣のやり方に、裏切られても仕方ないと思ったのではないでしょうか。
その意味では、貴方は正しい。
@@fanasimov96
家康の祖父も父も内部の敵にやられてるからねえ。心の中では家康も三河武士達も忠義なんて大して信じてなかったと思うよ。幕府作って神格化されたから全員忠義の人みたいになったけど。
@@戸田賢司 貴方は人と人との信頼関係がなくても組織は動くと考えているのですか。
御恩と奉公は、八幡太郎義家以来の武家の常識でしょう。
長州征伐の時の装備が旧式だったから惨敗した話は実際は違うと思う。戦場になったところは国境の川越えたらすぐ山という地形で攻め側が圧倒的に不利で最新式の銃持ってても無理。但し長州兵は数が少ないから他藩も含めての一斉渡河攻撃なら長州もどうにもならかったと思うけど、彦根藩だけで攻撃して、長州から回り込まれたり、追撃されたりしても援護してくれる友軍もいない状況になってるんだから、戦術が悪いというかそもそも指揮が崩壊してる感じ。
現在の当主は婿さんだと言っていたけど、直~さんというのは偶然なのかな?改名?
まさか、直の字が付いていることが第一条件!?
本名は井伊岳夫。家督を継いでから直岳と名乗っている。
@@yh6146 教えて頂きありがとうございます。
通称なのか法的に改名したのかは知りませんが、名家も大変なんですねぇ…
くやし よしだしょいん うらぎりもの どくがわ なりあき iiなおすけだいろに てぽうてるし ふあんする むろん しあわせごと
井伊直弼が朝廷を無視して締結した不平等条約によって日本国内の金や銀がタダ同然の値段で海外に流れていった事実を無視しないように
水戸家家臣と薩摩浪士が直弼を襲撃した理由の一つと言われています 歴史的エビデンスあり
幕府の不都合な事を押し付けられる覚悟もない大老って過去の大老職の人たちに対しても失礼ですよ(笑)
そもそも最初は不平等条約では無い。薩長がテロを起こして賠償金を幕府に押し付けたけど、財政難で賠償金を払えないから関税を大幅に下げて補填せざるを得なかった。だから明治政府が不平等条約の改正で苦労したのは完全に自業自得。
@@yh6146さま
そうなのですか。交渉にあたった林大学頭など、相当に切れ者と聞きますから、迂闊なことはやらないハズですね。やはりそんなことだつたのですか。
事実やった事だけみれば卑怯な裏切り者といわれても仕方ない 何があっても主家を裏切らないというのが武士道 武士はニ君にまみえず
そんな戯言は江戸時代からなので。ご恩と奉公のギブアンドテイクが本来の武士道だ。
@@戸田賢司 武士は会社員とは違いますよ 爆笑
武家諸法度をもっと勉強してね
@@tomoyuki74
武家諸法度なんて、武士が生まれてから500年以上も経ってからのにわか法律がどうかしましたか。
@@戸田賢司 井伊家の裏切りの正当性を八幡太郎の時代のギブ&テイクで論じるのは現代の犯罪者の正当性の根拠を戦国時代の理法で述べるようなものです
そのにわか法律を作った徳川家の大老が直弼ではなかったですか? 爆笑
水戸が悪い
そう考えると八戸南部はすごかった。
井伊直弼って中曽根とか小泉親子とか安倍晋三とか竹中平蔵みたいな奴だよね。
戦の際には先陣を任される家柄なのに裏切るとか恥知らずにもほどがある
藤堂藩と並ぶこの世には存在してはいけない裏切り者